2016年1月20日水曜日

ボーカロイドとミニマル・ミュージックの類似性について考える

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こんにちは、MUCHOJIです。
初めて当ブログをご訪問の方は、「はじめに」をお読みください。
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ボーカロイドの初音ミクが、J.S.バッハといったクラシック音楽の作曲家の作品を
歌うことをどう思う? と尋ねられて、いろいろ考えていました。

作曲家の冨田勲さんによれば、
要するに、ボーカロイドは日本のお家芸。
辻村寿三郎さんの人形舞にしてもそうだけど、
人間が生で演ずるよりもすごいものがある、らしい。

そういえば、人形浄瑠璃を見るとき、その神がかった妖しさに、
人形だからこそ、人間以上のものが出てくるなと感じていたのですが、
そういう文化が日本には脈々とあって、
初音ミクはその電子版なのだ、と考えるととてもしっくりきます。

物に魂が宿る…という概念は、一説にはアジア特有のものだそう。
からくり人形、ジャワ島の影絵芝居(ワヤン)などなど…
生きているように見えることが大前提ですが、それらは生きてはいない。
自ら限界値や結界を設けて、その中での最大限を追い求める美学が
そこにはあります。

ボーカロイドの進化は目覚ましいものがあり、
最高の声楽者の声帯や声門を取り出し、分析することで、
初音ミクがそのうち名曲を最上の声で歌うようになるだろう
ともいわれていますが、それはあまり意味がないのではと思います。

なぜなら聴き手は、その人間としては不自然な機械っぽさにこそ
魅力を感じるわけだから。

ボーカロイドは極端に速かろうと遅かろうと歌えるし、
変則的な拍子やすさまじい跳躍も何食わぬ顔で表現できて、
でも速くても遅くても一種のフラットさを内に含んでいて、
それはこれまでの音楽でいうと、
ミニマル・ミュージックに共通するようなフラット感。

そのフラット感を聴き手は気持ちいいと感じる
と考えると、ボーカロイドのファンのほとんどは、
クラシック音楽とは違うところを生きてきた人たちだと思いますが、
その人たちの聴取の仕方には、
クラシック音楽のミニマル・ミュージックを越える可能性が秘められていそう。

ミニマリズムと違って、ボーカロイドが喚起するイメージは無限だから。

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